こばとんの歴史探訪①秋田県・角館

 旅を楽しくさせる方法はたくさんあると思うが、歴史というのはその有力な一候補となり得る。歴史とはつまりストーリーなので、ただの景色さえも、歴史を通してみればそこに物語が生まれる。それがまた景色に深みを出させ、鮮やかに彩る。このシリーズでは「歴史と一緒に旅行する」ことで出会ったいろいろなストーリーを取り上げ、歴史の楽しさをお届けしたい。

 

 

 冬の東北の日没は早い。角館についたのは、もうすっかり日が傾き、街が暗闇に飲まれていこうとする時間になってからだった。

 角館は、「みちのくの小京都」と称され、江戸時代の姿を残す武家屋敷で知られる。薄暗くなってもその風格と気品は十分に漂わせていた。

 きっともう撤収の時間であって、いまからお邪魔すれば迷惑をかけてしまうかもしれないと少し心を痛めつつ、今にも閉めようとしているように見える武家屋敷の一つに滑り込む。せっかくはるばる角館まで来たのだ。武家屋敷の一つくらいはせめて見たい。

 

 

 おじいさんがこちらの様子をみて「どうぞ」と言ってくれる。もう電気も消そうとしているようだったが、「これ囲炉裏なんだけどね、今では文化財の家が燃えちゃいけないから電気なんだよ」といいながら囲炉裏の火をイメージした赤い電球をつけてくれる。それから、「武士は今で言う公務員だからね、大変なんだよ」といいながら、思ったよりも遥かに質素な武家屋敷のなかを丁寧に紹介してくれる。平日に東京から来た学生は珍客だということもあったかもしれないが、嫌な顔一つせず丁寧に説明してくれるおじいさんに角館の人々のあたたかい人柄を垣間見た気がした。(一番印象に残ったのは自在鉤の使い方だった。あれほどよくできたものだとは知らなかった)。

 

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角館武家屋敷の岩橋家

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つくりは質素である。

 さて、ここは「岩橋家」の武家屋敷である。岩橋家とはどんな武家だったのか。

 説明板にはこうある。「岩橋氏は、南奥州の名門会津黒川城主芦名氏の重臣であった。天正17年(1589年)芦名氏が伊達政宗に敗れ、兄である常陸の佐竹氏を頼り常州へ移り、江戸崎において秀吉から四万三千石を与えられると、岩橋氏も芦名氏に随従して江戸崎に移った。

 関ケ原の戦い後、慶長7年(1602年)佐竹氏の出羽移封とともに芦名氏も出羽に下り角館一万五千いしを与えられた。岩橋氏は一時江戸崎を立ち退き津軽氏に三百石で仕官していたが、主君の角館居住とともに再び芦名氏に帰参し角館に居住した。

 芦名氏が承応2年(1653年)三代にして断絶するに及んで、代わって角館所預となった佐竹北家の組下として(八十六石)、廃藩に至るまで仕えた」。

 

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上記の説明板。

 

 ちょっと歴史に詳しい人なら、今の秋田県がかつて佐竹氏の所領であったことは知っているであろう。あるいは、今の秋田県知事は藩主佐竹氏の末裔であることでも知られているから、このことを知っている人はもっと多いかもしれない。

 佐竹氏はもとからここ秋田にいたわけではない。説明文にある通り、常陸=現在の茨城県から「移封」してきた。1600年の関ケ原の戦いに勝利して天下を統一した徳川家康であるが、それはまさに「武」をもって日本全国に乱立した戦国大名を従わせてきたということであった。言い換えれば、いつ裏切るか分からない地元に根差した大名たちを大量に抱えているわけであって、これではもし彼らの反感を買えば幕府が倒されるのも時間の問題となってしまう。そこで、幕府は各外様大名の力を削ぐために、さまざまな理由をもって従った大名たちを影響をもつそれぞれの地元から引きはがして、「転勤」を命じた。江戸から近い常陸に強い影響力をもつ佐竹氏も、こうしてはるばる秋田まで飛ばされてきたのである。

 

 さて、そんな佐竹氏であるが、当時の藩の中心であったのはここ角館ではない。現在の秋田市内にある久保田城が佐竹氏本拠地であった。ここ角館には、最初は佐竹氏の家臣の一人であった蘆名氏が入ることになる。

 説明文を読んでいると、不思議な部分がある。岩橋氏は「南奥州の名門会津黒川城主芦名氏の重臣であった」。ちなみに、会津黒川城とは今の会津若松市にある鶴ヶ城のことである。それが、蘆名氏が滅亡すると「兄」である佐竹氏を頼ったというのである。名門蘆名氏の「兄」が佐竹氏とはどういうことなのか。名門蘆名氏はどうして、佐竹氏に従ってここ、角館までやってきたのか。実はここに、岩橋氏が会津から茨城へ、さらに一時は青森を経て秋田までさすらうことになった理由が隠されている。

 

 

 時は戦国時代。いまの会津地方では蘆名氏が強勢を誇っていた。蘆名氏は盛氏の代に最盛期を迎える。北条氏・武田氏と同盟して佐竹氏と対立するなど、当時の蘆名氏は東北では伊達氏と肩を並べるような有力な大名であった。

 しかしその栄光も長くは続かない。最大の問題は、盛氏から家督を継いだ盛興が若くして亡くなってしまったことだ。驚くべきことに、盛氏は側室を一人も持たず、子どもは盛興一人であった。現代的に見れば「奥さんひとりを大切にした」と評することも可能もしれないが、400年前の乱世は当然現代の価値観がそのまま通用するものではない。後継者不在は蘆名氏の支配に暗い影を落とし始める。

 

 降伏した二階堂氏から人質として差し出された盛隆を後継者に据えるが、突然他の家から連れてこられた新当主は、家臣の全員にとって必ずしも容認できるものではなかったようだ。蘆名氏の家臣の中では対立が深まっていく。その中で、結局盛隆は寵臣によって暗殺されてしまう。

 

 混迷は止まるところを知らない。次なる後継者となるはずだった盛隆の子、亀王丸は疱瘡により夭折。蘆名氏は再び後継者不在の危機に陥る。次なる後継者は伊達氏の小次郎(政宗の弟)か、あるいは佐竹氏の義広かの2人が候補となった。両家、そして蘆名氏の家臣団の間での激しい争いの末、当主に据えられたのが佐竹義重の息子、義広である。そう、彼はのちに佐竹氏の当主となる佐竹義宣の弟にあたるのである。

 

 しかし、これに対して伊達氏が黙っているはずがない。ここで登場するのがかの有名な独眼竜・伊達政宗である。

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伊達政宗

 ここで立ち止まって考えてほしいのだが、佐竹氏から蘆名氏に養子としてやってきた義広が、蘆名氏の家中をまとめて、伊達氏とまともに戦うことができるだろうか。できるはずがない。伊達氏は後継者争いでは小次郎を推していた蘆名家臣(猪苗代氏)に対して調略を行い味方につけるなどして、徐々に伊達氏の有利を確立していく。そしてついに1589年、伊達氏と蘆名氏の一大決戦が行われた。有名な「摺上原の戦い」である。しかし、混迷の果てに戦場に立たされた蘆名氏は伊達氏の敵にもならなかった。蘆名方は武将の戦線離脱など裏切りが相次ぎ、大敗を喫する。

 「独眼竜」として高い人気がある政宗の大勝が喧伝されるこの戦いであるが、義広の視点から見ればどうであろうか。政争のなかで養子として混乱する蘆名家中に連れてこられ、勢いのついた伊達氏と対決を強いられ、ボロボロに負ける。あまりに悲哀に満ちているではないか。この時の義広はまだ10代前半であった。その幼く小さな双肩には、すでに末期症状を呈していた蘆名氏の再興という使命はあまりに重すぎるものであった。

 

 独眼竜政宗の飛躍は既に約束されたものだった。この大敗によって蘆名氏は壊滅し、義広は兄を頼り常陸へと逃げる。蘆名家臣のなかには伊達家に仕えたものも多かったが、岩橋氏はここで義広に従って共に常陸に逃げたことは説明板から読み取れる。こうやって名門・蘆名氏は歴史の表舞台から姿を消していくのだった。そして、岩橋氏の会津から角館への長旅も、このとき始まるのである。

 

 これは余談であるが、1589年という年号に注目してほしい。翌年1590年に、豊臣秀吉は天下統一への最後の大仕事として、関東の北条氏を攻める。世に言う「小田原征伐」である。関東最大の戦国大名であった北条氏を下すことで、秀吉の権威は揺るぎのないものとなった。さて、秀吉は北条氏攻撃の前に、「惣無事令」なる法令を出したとされる。これによって大名間の争いを禁止し、違反すれば厳しい処分を下すというものである。

 1589年に蘆名氏を破滅させた政宗は、残った蘆名残党の制圧に乗り出す。しかしこれら一連の政宗の軍事行動は、秀吉の惣無事令に照らせば厳罰を受けるべき内容であることは言うまでもない。結局政宗は小田原に滞陣する秀吉のもとに帰参し、恭順することとなった。この時に政宗が白装束姿であったという逸話は、あまりに有名である。政宗は、こうして手に入れた会津を手放さざるを得なかった。彼が「生まれてくるのが遅かった」と言われる所以は、ここにあるといえよう。

 

 

  あっという間に政宗のもとから取り上げられた会津であるが、蘆名義広が再びこの地に戻ってくることは叶わなかった。会津には秀吉配下の武将であった蒲生氏郷が入った。しかし、蘆名義広も江戸崎(現在の茨城県稲敷市)に4万5千石を与えられ、一応蘆名氏は大名としての復活をみた。

 が、その期間も長くは続かなかった。原因は、兄の佐竹義宣が1600年の関ケ原の戦いにおいて西軍に属したことによる。佐竹氏はこれによる仕置きとして出羽移封となる。これによって蘆名義広も落ち着いたばかりの江戸崎を離れ、兄に従って秋田へと移る。ここで蘆名氏に与えられた領地が、角館であった。

 角館は会津、そして江戸崎と目まぐるしく戦国の世の混乱に翻弄され移動を余儀なくされた蘆名義広にとってついに安住の地となった。角館の街が発展し、現在のような街並みを私たちに残しているのも、この発展の礎に蘆名義広が果たした貢献が大きいことは言うまでもあるまい。

 ここまできて悲しいことを付け加えるのも気が引けるが、どうも蘆名氏は後継者に悩まされる運命の武家だったようだ。義広の死後、息子たちは相次いで病死、最後には当主・千鶴丸が3歳で事故死し、ついに蘆名氏は途絶える。以降、佐竹北家が角館に入り、江戸幕府が倒れ廃藩置県を迎えるまでここを支配したのである。

 

 さて、岩橋氏はというと、この混乱の中で、どうも一時は青森の津軽氏を頼って三百石を与えられていたらしい。しかし、主君への忠義を忘れていたわけではなかった。義広が角館へ移動してくると、再び義広のもとに戻ってくる。私は弘前から角館へとやってきたが、図らずも岩橋氏と同じ動きをしていたらしい。蘆名氏時代はわからないが、その後の佐竹北家時代の石高は86石というから、これでは津軽氏にいたころの石高の1/3となっている。それでも岩橋氏は蘆名氏に従って角館までやってきた。蘆名氏断絶後は変わらず佐竹氏に仕え、こうして現代に武家屋敷を遺したのである。

 なお、同じように書くのだけに武家屋敷をのこす青柳家、河原田家も同じように最後まで主君と運命を共にした蘆名家臣たちである。今回は時間の関係もあり屋敷を見ることができなかったが、つぎに角館に来たときは必ず見たいものだ。

 

 

 当主不在の混乱、大敗と崩壊、そして移封を迎えても決して蘆名氏を見限ることのなかった岩橋氏の文字通りの「忠義」を心から感じるともに、時間が遅くても私たちに丁寧に武家屋敷の隅々まで教えてくださった頑固そうだが親切なおじいさんの背中に、なかなかイメージのわかない岩橋氏の面影が重なって見えるような気がした。角館の景色だけではなく気風をしっかりと感じた、そんな気がした。「また来てね」というおじいさんの言葉を思い出し、再訪を誓いながら、もうすっかり暗くなった国道46号を疾走する。角館の街は少しにほろ苦く、しかし爽やかな、深みのある後味を残して離れていくのだった。

 

 

 

 

 補記:歴史を専攻するものとしては、本来はきちんとした本、できれば専門書を下敷きにしてこういった文章を書くべきなのですが、社会情勢もあってなかなかアクセスするのが難しい状況であります。この記事は、筆者が記憶から引っ張り出してきた戦国時代の知識を、Wikipediaの各記事、あるいは本棚からどうにか引っ張り出してきた本たち(中田正光『伊達政宗の戦闘部隊 戦う百姓たちの合戦史』 洋泉社 2013・吉田龍司ら『戦国武将事典 乱世を生きた830人』 新紀元社 2008など)で補強して書いたものです。この記事は学術的な事実の提示を目的とするものではなく、歴史を知っていればちょっとした日常でも感動的なストーリーになり得るということを皆さんにお伝えすることを目的としており、必ずしも歴史的事実・最新の研究などとは一致しない面があることを、予めご了承くださいませ。